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界西西方寺文書 かいにしさいほうじもんじょ
収蔵品情報
| 年代 | 室町時代~昭和時代 |
|---|---|
| 材質・技法 | 紙本墨書 |
| 収蔵館 | 和歌山県立博物館 |
| 解説 | 紀美野町毛原宮の界西地区(西方寺)の文書である。貴志川の上流にあたり、毛原宮から勝谷(紀美野町)に抜ける山間部に位置する小集落で、江戸時代には界西(通西)村としてあらわれる。古文書は総数128点を数える。その内訳は、中世文書が3点、近世文書37点、近代文書(不明分含む)88点からなる。 中世文書3通は、いずれも土地に関する証文である。ケンクワンハウ紛失状〈1・2号〉は、嘉吉4年(1444)「カイニシノクホノチャクシノセンクワンハウ(界西クホノ嫡子ノセンクワン房)」が、勝谷(紀美野町勝谷)の山野をタワの氏神へ寄進したが、その寄進状を「カウヤノラン(高野の乱)」で紛失したため、本文書が代わりとなるものであることを宣言した紛失状である。メウクウフウフ寄進状〈3号〉は、寛正4年(1463)メイクウフウフが、界西の坂の道の草刈り費用として料足300文を寄進した文書で、道の維持費用が記されている。いずれも「カイニシ」(界西)という地名が登場し、界西地区が15世紀半ばに遡る村であることがわかる。またいずれもカタカナで記され、文章も整わないものであるが、在地で作成された売券として注目すべきものである。 近世文書では、山林売買や山林の管理に関する規定を定めた文書のほか、隣の勝谷村との山野相論に関する文書、頼母子に関する定書や帳簿、用水の人夫にかかる帳簿、西方寺の建立に際しての奉加帳などがある。そのほか、四国遍路や西国巡礼の納経帳なども残る。近代文書では、共有山に関する約定書・連絡事項、西方寺再建に関する帳簿、頼母子の帳簿、地券・地租領収書などがある。近世・近代文書ともに、生業の場である山野に関する取り決めと争い、村の運営、西方寺の維持管理にかかわる文書が残されており、高野山麓の山間部の村落の様相をうかがうことができる資料である。 |